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zoom RSS 久しぶりの遺跡,古墳ネタ

<<   作成日時 : 2007/06/06 22:59   >>

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 今日は出張でした。職場に帰ってから報告書の作成等もあり,通常の遅番よりも遅くなってしましました。なんでやねん!!そういうわけで,サッカーU−22日本代表の試合については,後半の後半ぐらいしか見られませんでしたので,この後ダイジェスト等を見て明日にでも書きたいと思います。

 そういうわけで,今日は何を書こうかなと思っていたところ,何日か前に読んだネタを思い出しましたので,それについて書こうと思います。

 まず最初ですが,ここのところ良く書いていました奈良県明日香村の高松塚古墳の極彩色壁画のうち,「青龍」に使われた鮮やかな青色の顔料について,東京文化財研究所が3年前に発表した「宝石のラピスラズリが使われていて,日本では類例がない。」とした説を事実上撤回していることがわかりました。
 これは,調査方法等に研究者から疑問が相次いだためで,東京文化財研究所も論拠の薄弱さを認め,最近の専門誌では触れていないそうです。
 因みに青龍が描かれた側壁は間もなくに取り外される予定で,文化庁等は,顔料の結晶構造などを詳しく調べる予定とのことです。

 二つ目の記事ですが,平安初期の武人で,蝦夷征討等で知られる征夷大将軍,清水寺を建立した坂上田村麻呂(758〜811年)の墓が,京都市山科区で大正8(1919)年に見つかった「西野山古墓(写真手前の×印。奥の丸印は清水寺)」である可能性が極めて高いことが,京都大の吉川真司准教授(日本古代史)の文献調査で分かったそうです。古代条里地図が示す区域と一致したことなどが根拠になっているそうです。天皇を除くと,奈良・平安時代の上級貴族の墓が特定されるのは極めて珍しい例になります。
 清水寺の起源をまとめた平安時代後期の書物「清水寺縁起」。その中に引用されている811(弘仁2)年の政府の命令書「太政官符」表題部に,田村麻呂の墓所として「山城国宇治郡七条咋田西里栗栖村」水田や畑,山林を与えるとの記述があり,古代の土地区画法・条里制の地図に当てはめると,西野山古墓が含まれていたそうです。
 西野山古墓は周囲を木炭で覆った木の棺で,8〜9世紀の金銀装飾の大刀や金銀平脱双鳳文鏡が出土しており,高級さは正倉院宝物に匹敵し,上級貴族の墓と考えられていたそうですが,誰の墓かということについては特定されていなかったとのこと。
 場所は,清水寺の南東約2キロ。東国へつながる古道沿いにあり,墓から西へ下ると平安京の南正面・羅城門に出櫓という場所から考えると,最後は大納言まで上り詰めた高級貴族・田村麻呂への当時の見方として,吉川准教授は「都の東の入り口に据えて守り神としたのではないか。」と話しています。
 古墓の南東1.5キロには,明治28(1895)年,平安遷都1100年祭に際して整備された「坂上田村麻呂の墓」がありますが,こちらについては考古学的な根拠は乏しかったので,今後はこちらの古墓が,彼の墓として認知されるようになるかもしれませんね。

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