国内の遺跡等に関するネタ

 体調が悪かった上に,今日は出張で色々な作業を炎天下でしていたら,余計調子が悪くなってしまったような・・・。全く困ったものです。(苦笑)

 こんなこともあろうかと思って(「宇宙戦艦ヤマト」の真田さん風に),先週辺りにネットで見て気になっていて,原稿を書いておいた遺跡等に関するネタを書きたいと思います。今回は国内編です。そうそう,今週,平安京のネタと同志社女子大内での二条家の邸宅跡のニュースもありましたが,そちらは,後日まとめたいと思います。 海外版も後日。

 まずは,静岡県から。
 静岡県長泉町の原分古墳(7世紀初め)で出土した鉄製大刀の「柄頭(握り部分)」に,薄い銀板を使って精密な象眼が施されていたことがわかったそうです。
 柄頭の表面はサビで覆われていましたが,奈良文化財研究所と静岡県埋蔵文化財調査研究所が,高精度の透視画像が得られる最新装置「マイクロフォーカスX線CT」で調査して判明したとのこと。銀板を使った技法が確認されたのは初めてだそうです。
 柄頭は厚さ2~8ミリのサビに覆われていたそうですが,同装置で調べたところ,たがねで深さ約0.3ミリの渦巻き文様の溝が彫られていたことがわかったそうです。
 一方,銀板は幅1~1.3ミリ,厚さ150~160マイクロメートル。ねじり曲げて溝にはめ込まれていたそうで,曲線の曲がり具合によって太さを変え,溝にしっかり固定する工夫だったらしいとのことです。

 次は奈良県の平城京です。
 奈良県大和郡山市の下三橋遺跡で,平城京(710~784)の南限とされてきた九条大路の南532メートルで,東西に走る道路遺構が見つかり,市教委は「十条大路」と断定したと発表しました。造営後に廃棄されており,それより南に道路遺構はなかったとのこと。南北には九条だったとする100年前からの定説を覆し,造営当初は十条大路が南限で,後に九条大路までに縮小されたことがほぼ確定したことになります。
 平城京内は東西南北とも532メートル間隔の大路で区切られ,さらに133メートル間隔の小路で細分されていました。05,06年には,九条大路より南で,東西に走る3本の道路(133メートル間隔)が造営後に埋め戻された跡が見つかり,造営当初の条坊(碁盤目状の街区)が定説より南に拡大することが分かっていました。
 今回は十条大路の想定地など約2040平方メートルを調査。長さ9.5メートルにわたって,幅14メートルの道路と,南北側溝の遺構が確認されたとのこと。既に見つかっている条坊遺構と同様,遷都から約20年以内に埋め戻されたとみられています。後に九条大路に付設された羅城や塀の遺構はなかったそうです。
 十条大路の南133メートルの地点は小石混じりの堆積層で,道路遺構はなかったそうなので,市教委は十条大路以南に京域が広がる可能性がほとんどないと判断したそうです。
 藤原京(694~710)は,南北が十条までとする説が有力のため,市教委の山川均・文化財係主任は「今回の発見で平城京が藤原京のプランを踏襲していた可能性が高くなった。」とコメントされたそうです。

 以前も書きましたが,三女が歩けるようになったら,子供達を連れて遺跡や古墳巡りをしたいものです。でも,休みが子供達となかなか一緒にならない今のセクションのままでは,難しいかもしれませんね。

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